19世紀の初頭になると、フランスでナポレオンが台頭し、ヨーロッパはこれに注意を向けるようになった。ナポレオンはヨーロッパにおける覇権を確立するため1807年にティルジット条約を結んでロシアと同盟関係を形成し、「東方」に影響する次の約束を結んだ
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ロシアはイギリスとの戦争でフランスを支援する
引き替えに、ロシアはオスマン帝国からモルダヴィアとワラキアを獲得する
もしオスマン帝国がこれを拒絶したならば、両国は協力してオスマン帝国と戦争する
オスマン帝国のヨーロッパ側領土は両国の同盟国間で分割される
この同盟は、オスマン皇帝に脅威となったのはもちろん、イギリス・オーストリア・プロイセンにも脅威と取られたが、これらの国々は実質上この問題に介入する力を持っていなかった。
オーストリアは、仮にフランスとロシアがオスマン帝国と開戦した場合、明らかにオスマン帝国を崩壊させると考えて、外交により両国のオスマン帝国への攻撃を回避することを望んでいた。さらにオーストリアの宰相メッテルニヒは、もし攻撃を防ぐのに失敗するようならば、南東ヨーロッパすべてをロシアが支配する事態だけは避けて、両国の主導するオスマン帝国の分割を支持しようと考えていた。
しかし結果的には、1812年に始まったナポレオンのロシア遠征によってフランスとロシアのティルジットでの同盟は瓦解し、両国によるオスマン帝国攻撃は実現しなかった。1815年には、列強の反撃によってナポレオンのヨーロッパ支配は終わり、列強はウィーン会議を開いて戦後の外交秩序を形成した。このときには「東方問題」はロシアの国内問題であるという解釈が支配的で、オスマン帝国領に関する問題は話し合われず、この会議の結果形成された神聖同盟からもオスマン皇帝は除外された。